摩天楼の怪人

摩天楼の怪人 (創元クライム・クラブ)

摩天楼の怪人 (創元クライム・クラブ)

満足度:☆☆☆★★ 「オキシデンタリズム(西洋趣味)が丸出し」
1.西洋趣味の純然たる国産小説
 本書は筆者による近年の外国を舞台にした作品のひとつであり、作品としての魅力に欠ける。それは西洋趣味(オキシデンタリズム)の飾りをつけた、純然たる国産小説だからだ。
 オキシデンタリズムとは東洋人が欧米(西洋)の風俗・事物にあこがれと好奇心を抱く異国趣味のことだ。そのため一見、欧米を視野に入れた作品にみえるが、実際の所は、欧米にあこがれを抱く日本人読者を満足させるためのものなのだ。
 西洋趣味に毒された本書は、国産でも海外でもない中途半端な作品だ。物語として致命的なのは、本書はあくまで西洋趣味の段階にとどまっているので、雰囲気はだせても、それ以上にならないことだ。
 たとえば本書の会話には血が通っていない。ほんらい会話は小説に命を吹き込む重要な要素だ。会話こそフィクションに命を通わせる血液なのだ。しかし本書でかわされる会話は紋切り型で、魅力がない(おなじ荒唐無稽な作品を書いているスティーブン・キング作品に登場する会話とくらべれば、その差は歴然としている)。登場人物の会話には、台本を棒読みしているような空々しさがある。
 
2.謎の濫用
 謎をつくりすぎだ。いくらなんでも殺人の数が多すぎる(数えたかぎり、七件あった)。殺人以外にも、瞬間異動やビル破壊などの謎がある。結果、話の焦点がぼやけてしまっている。
 謎の解明もつじつま合わせの印象をうけた。とくに、密室殺人が「飛び道具」で解明されるくだりでは、不快を通りこして、そのマンガ的な馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった(そんな道具を持ち出すくらいなら、密室なんて初めから作らなければよいのに)。窓ガラスうんぬんの話(ケミカル・リアクション!)も「信じがたい偶然」でつじつまをつけてしまう筆者の姿勢には、それこそ脳裏にクエスチョン・マークがいくつも焼き付いてしまった。(筆者は探偵小説を、つまらないつじつま合わせへと堕落させている!)
 
3.自身の知的満足を啓蒙という形で読者に還元する筆者の「親心」には毎度のことながらあきれ果ててしまう
 筆者はマンハッタンの建築史に関心をもったそうだ(あとがき)。それはそれでよい。何か書きたければ、ノンフィクションを書けばよい。どこかの団塊世代を対象にした雑誌が買い取ってくれるだろう。どうしても書きたいのだったらウェブに発表してもよいではないか。しかしそれをフィクションのなかで書いてしまうとはどういうことか(知識の披露はあきらかに作家の独創性とは逆のベクトルだ)。
 もうひとつ、筆者はこんなことをいっている。「この小説はできるだけ史実に基づき、言ってみればこれからマンハッタン島を訪れたいと考える人たちにとっても、初級入門程度の情報源になればと願いながら書いた」(p. 599)。
 島田から啓蒙をうけるほど読者の精神生活は貧しいのか。島田はまず、そのような一方的な読者像をいだく自身の、その驕慢な精神こそ真摯に反省すべきだろう。
 
(その他)こまかい疑問点
 「空中庭園」についてはいくつか疑問がある。
 庭園の秘密を保つのは非現実的だ。設計図にも残るし、売り出しのとき呼び物にしないのはおかしい。造園過程についても筆者はいいかげんなことしか言っていない。1910年の完成から数年後は出入りできた(p. 498)とあるのに、1916年には庭園があったというのはちょっと考えられない。結局、あいまいなままだ(p. 192)。
 また「摩天楼の怪人」は塩分をどのように摂取したのか。糞尿も相当な量が出たはずだが、その処理は?
 時計塔のある広場のことをタイムズスクエアといってよいのか(p. 508)。ブロードウェイのそれは、ニューヨークタイムズ社のビルがあったことに由来する。クロックという具象物をタイムという抽象名詞と同義に扱うのは抵抗をおぼえる。
 第四章の地下王国の話はどうなったのか。ほったらかすんだったら、書かなきゃいいのに。困った人だ。