乱歩作品の「世間」

「覆面の舞踏者」(大正15年1月)

世間にはそうした男が間々あるものですが、(109頁)

もはや世間に顔出しもできない気がします。(127頁)

こんな、世間にも顔向けもできないような、不愉快な結果を招かずともすんだのですから(128頁)

「赤い部屋」(大正14年4月)

ある郊外の文化村とでもいうのでしょう。十軒あまりの西洋館がまばらに立ち並んだところを歩いていました。(24頁)

その、世間とはまるでかけ離れた幻の部屋に、世間の風が吹き込んでっきたようで、なんとなく不調和な気がしだした。(34頁)

「双生児」(大正13年10月)

同時に世間の人たちにも、それを知ってもらうことです。(393頁)

私という男は生れつき悪人にできていたのか、世間なみの世渡りというものがひどく下手でした。(395頁)

「人でなしの恋」(大正15年9月)

かえって世間並よりは物柔らかで、私などには、それは優しくしてくれるのでございます。(430頁)

世間ではお嫁入りはつらいものとなっていますのに、(431頁)

それはもう世間のどのような女房思いのご亭主でも、とてもまねもできないほどでございました。(431頁)

 

 

 

装いと日本人―日本人の歴史(6)

日本人の知的蓄積を多面的なテーマから述べた書き下ろしの第6巻(全12巻)。筆者の本は気軽に読めるが、鋭い指摘を含んでいる。本巻のテーマは日本人の装いとその歴史であり、この話題について一通りの知識をえることができる。筆者いわく、装いには、服飾、化粧、その他の装身行為などがある。とくに、日本では湿気の高さが装いに影響を及ぼしているという。関心のない分野だったので、読後感は今ひとつだった。

以下、重要な箇所を引用。

日本では、かなり古くから結ぶという行為が発達し、しかも、その行為を神聖視していた。

縄に結びをつけると、自分を守る神がその結び目にも宿って、その土地を護ってくれると考えられた。だから、もし他人がこれを犯した場合、神の祟りを受けると信じられていた。40頁

装身具の中には、指輪や腕輪もある。/それらが使用された本来の目的は、身体に加えられた結びの信仰で、魂をしばりこめようという信仰から起こった。113頁

美人の基準は、その時代の生活環境や動労条件と相応して選択される。例えば、奈良時代の女性は、平安時代とは異なり、自由に屋外にも出歩いたことと、建物の軒出(のきで)が短く、宮殿内が明るかったことと関係して、顔は赤いことが美しいとされた。

顔は赤いことが美しいとされた。「赤」と「明るい」が同じ語源であるように、赤色は明るい色とされたのである。/『万葉集』の歌などから推定すると、健康的で活動的な美、太陽の光の中でひき立つ美が、奈良朝の美人意識の基準であったと考えられる。73-4頁

美しいという観念は、先にあるのではなく、先に事柄があって、それを美しいと理解し選択する心が生まれるだけである。たとえば、赤い色が美しいと思われた理由は、赤が呪力ある色と思われたことが先にあったからである。美意識は結果にすぎない。104頁

(平安時代になると)宮殿の暗さの中で、よりいっそう白さを強調するために、そのような化粧法が最高のものとされた。そして、白い顔を演出するために、黒髪を額縁として有効に使い、白と黒とをうまく演出して、明暗の美をつくり出していた。120頁

(歯を黒く染める)もともとの動機は、笑うと歯の黒により顔をより白くみせるという演出である。118頁

仏教が日本人の金に対する意識に影響をおよぼした。

日本人の金に対する意識は、単に美しいという以前に、仏教的な要素が強かった。金色の法勝寺や金閣(鹿苑寺)がつくられたのも、そのあらわれである。200頁

その他

母系制社会では、女性が家の中心である。だから、結納は男性から差し出す代償でもあった。今も行われている結納は、婿入婚の名残である。48頁

西欧では、扇風機が発明されるまで、風を送る道具をもたなかった。中国には団扇(だんせん)があったが、これは主に虫をはらったり、太陽光線から顔を守るための道具である。63頁

これも[=昔は、女性が結婚するときには、一生分の衣服をもっていたこと]もとをただせば、花嫁が生涯の衣類を用意するということは、古代の招婿紺の名残りで、家の主体は妻=母であることを意味していた。98頁

神に供え物をするときに、直接の奉供を失礼と考え、竹や木の串に刺してあげた。これを玉串という。112頁

古代には人が死んだとき、殯というお祭りをした。その際に、「あな楽し」「あな面白し」「あっぱれ」などという言葉を使った。/それは、後の「万歳」にあたる言葉である。霊魂が天に昇ることを祈願した、一種の祝福の言葉である。122頁

不思議なことに、『万葉集』の歌には、下層民以外、髭のことがほとんど出てこない。『万葉集』の歌のほとんどが、七世紀から八世紀にかけての歌である。つまり、当時は、中国の宮廷の風俗の影響で、髭を生やすことが制限されていたのである。179頁

昔の人々にとって、人が死ぬということは神になるということを意味していたから、かならずしも不吉なことではなかった。今でも死者に白装束をまとわせるが、これはその名残りである。202頁

西洋人は毛皮をよく着用するが、その場合、毛の部分を外に出している。これは防寒的には効率が悪い。本当に防寒のためなら、毛のあるほうを内側にして着なければならない。/これは、毛の排水性のほかに、毛皮が高価なものだけに、他人に誇りたいという気持のあらわれだと思われる。その毛皮が、自分の力で射とめた動物のものであれば、なおさらそうした気持は強いに違いない。212頁

 

 

 

性と日本人―日本人の歴史(4)

日本人の知的蓄積を多面的なテーマから述べた書き下ろしの第4巻(全12巻)。気軽に読めるが、鋭い指摘を含んでいる。

日本人の性意識の特徴は、筆者いわく、「仏教の性意識と、主として社会体制のバックボーンとなった儒教の性意識と、さらにあとで入ってきた西洋的な性についての発想とが、複雑に入り混じって、今日の日本人の性意識がつくられている」ことだという(70頁)。以下、重要な箇所を引用。

平安朝の人々は、よく「まみえる」という言葉を使った。

平安朝の人々は、よく「まみえる」という言葉を使ったが、これは男女の性の結合を意味していたと思う。(中略)現在は「まみえる」という言葉が日常語にないから、上品な言葉で「お会いする」ことを意味する言葉だと思っているが、もともとは、ずばり性の結合を意味する日常語であった。23頁

天狗は流星のことだった。

もともと、天狗とは、中国では流星のことをさしていた。『漢書』の中に、「天狗が出てきて人を食う」という記述があるが、これは流星の落下にする被害を語ったものである。28頁

清浄と不浄は表裏一体だった。

生きた血は生命そのものだから神聖である。しかし、血がいったん体内から出ると、汚れたものになる。31頁

平安時代の結婚は、古代以来の女性の地位の高さを反映して、重複婚だった。

平安時代、天皇以外の人は、摂政であろうと関白であろうと、自由に女性のもとにかよっていけた。/男は複数の女のもとに通っていけたし、女も複数の男から通われていた。相互に重複婚を行なっていたわけである。41頁

平安時代は、男女ともに自由な重複婚が行われ、かならずしもそれを継続することが絶対的な義務とは考えられていなかった。/たとえば、平安中期の女流歌人・和泉式部は、四人の男から通われ、どの男からもとくに独占されてもいないし、管理されてもいなかった。/女のもとに通ってくる時間は、男と女の自由な意思で決めるから、むしろ、男が女の都合によって通っていった。互いの性は、愛情を条件としながらも、非常に自由な状態だったようである。41頁

平安時代、婿取り婚をとおして、男女の力関係が男性有利に傾いていく。

女性の親が、通ってきた男の沓を包んで、懐へ入れてそのまま寝るのが「沓取の儀」である。/これらの一連の儀式には、男性がまた通ってきてくれるようにとの願いがこめられている。女性の親の、呪術にも似た涙ぐましい努力である。55頁

藤原道長の婚姻形式の変化から、当時の家族のあり方が女性中心から男性中心に変化した様子を確認できる。

実際に、平安時代には、古来の通い夫(づま)制が、はっきり「婿取婚」の形に移行していく傾向が、強くみられるようになる。/それが、やがて平安時代の末期のあたりから、しだいに「嫁入婚」に移行していくのである。/御堂関白と称された藤原道長(九六六~一〇二七年)は、最初の女のところへは通っていったが、二度目の婦人のときは家に引きとった。/ちょうど道長の時代のあたりが婿取婚と嫁入婚の境目で、実質的にも形式的にも、家族制が母系制からしだいに父系制に移りつつあったことがよくわかる。57-8頁

男の家長権は鎌倉初期に、はっきりと確立された。

北条政子の死んだ頃から、男の家長権が歴史の上ではっきり確立されたと考えてもいいのではないだろうか。(中略)貞永式目には、男性の家長権がきちんと決められている。これより、男は家と家の財産の責任者、管理者として、大きな権威をもつようになるのである。官位も男性だけがもらえるものとなり、被扶養者の女性は、特殊な場合以外、原則として官位がもらえなくなった。59頁

鎌倉時代の女性は結婚しても実家の姓を名乗っていた。

女性は結婚しても実家の姓を名乗っており、昔の通い夫(づま)的な意識がまだかすかに残っていたからである。60頁

「主人」が夫の意味になった背景

昔は女が男を管理するという形だったから、互いに相手が複数でもよかった。これが、男中心になると、女は夫一人のものとして、きびしくしばられてしまう。/封建的主従関係から出た「主人」という言葉が、夫の意味になる発想は、ここから生じた。今でも家長を意味する「亭主」という言葉が使われている。60頁

男性中心の家族は、家系を維持させやすいという長所がある。

女性は、受胎後は卵子の排出が止まるし、可産能率にも限界があり、量産できるとはかぎらない。もしその女性が不生女であったり、病気なので出産に対してドクター・ストップがかかったりすれば、それだけで家系は絶えてしまうことになる。/男は、相手さえいれば、いくらでも子を産ませることができる。これは男の生理なのである。封建社会では、男のこうした生理を利用して、一夫多妻を認め、家系断絶を防いだのである。61-2頁

日本人にとっての神の感覚

自然の秩序は、人為ではいかんともしがたい。人間をこえたものがそれを支配している。日本人はそこに神の存在を考えた。雨が降ることも、地震が起こることも、みな神の意志であると考えた。62-3頁

大和政権の統治の特徴

日本の天皇の統治は、外国の征服君主と違って、行政的な統治というよりも、むしろ地方の神々の統一とその祭祀権の集権を意味していた。76頁

『万葉集』三分の一は恋の歌

『万葉集』の歌は、その三分の一が恋の歌であるが、当時は一般的に、文章や文字で肉体的な性欲をあからさまに表現する風潮はなかったのであろう。87頁

一夫一婦制は、江戸時代以降のこと

江戸時代になると、一般の武士や女性は、一夫一婦制でしばられる。112頁

『源氏物語』は性よりも恋愛を題材にしていた

『源氏物語』は、決して性文学ではない。確かに男女の性関係を叙述してはいるが、それらは「相まみえる」とか「相会う」というような抽象的な表現で書かれていて、性行為についてのあからさまな描写はない。こうした表現のものは性文学とはいわない。『源氏物語』は、明らかに恋愛文学である。/日本人にとって恋愛と性とは、別の概念であった。114頁

万葉時代には、歌はすべて声を出して詠んだだけだった。

万葉時代には、歌はすべて声を出して詠んだだけであるから、残りにくい。しかし、平安時代になると、短冊に歌を書いたり、あるいは紙に書いて結文にして相手に送ったので、今も残っている。124頁

処女と乙女

もともと「処女」とは正しい女という意味である。性関係をもたない未経験の女のことは、日本では乙女(未通女)といった。171頁

その他

初潮以前の女というのは、日本では男でも女でもないとされたのである。174頁

万葉集時代以来、日本の家族制度が、母屋があって父屋がないように、家(ホーム)は母の住む家を中心とする母系制の血縁集団だったからである。176頁

血液を不潔なものと思いはじめるのは、江戸時代以降のことであるから、おそらくその以前には、[メンスのタブーにかんしては]平気だったのであろう。179頁

当時の日本人の主従関係からいえば、家臣のものはすべて主君のものなのである。たとえば、給与されている禄高にしても、主君のものなのである。/仕事をしているから禄高をもらうのに、大名はこれを勤労所得とは思わず、家の格式により受けた保証だと思っていた。そのため、その禄高の借り上げを行なった。借り上げるといえば聞こえはよいが、実際は減額、永久とり上げである。/要するに、家禄の一部を差し引いて、永久にとり上げるのである。家来の所有権は主君にあるという考え方だから、とり上げてもいっこうにかまわなかったのである。203頁

日本人は、「宮刑」とか「宦」という言葉は中国の文献で知っていたが、外科手術的な肉体の去勢は行わなかった。211頁

日本人が血は汚れていないと考える証拠に、生きている血を生血(いのち、生命)ということからもわかる。血(チ)は火(ヒ)、霊(ヒ)に関連し、霊妙神聖なものであった。もし、これを汚らわしいと考えるなら、生命(いのち)という言葉は出てこないはずである。213頁

 

 

 

自然と日本人―日本人の歴史(1)

日本人の知的蓄積を多面的なテーマから述べた書き下ろしの第一巻(全12巻)。以下、引用。

稲はどうしても促成栽培ができなかった。どうしても亜熱帯種の稲の発芽を保護し、分蘖(根茎が枝分かれすること)させるため温水で育てる。このため、苗代で植栽し、気温が高まる時期がくると、移植しなおさねければならない。13-14頁

苗代法によって稲の苗を移植して米の収穫を増やす知恵は、温帯圏における熱帯品種の栽培技術である。稲は熱帯品種で、それを温帯圏で栽培する場合、発芽期の直後は、亜熱帯的な条件で保護しなければならない。そのために苗代を作るのである。/一般に苗代には土を盛り上げて、そこへ種を蒔くが、その周囲には深い溝が掘ってある。水面に近いところはあたたまった水で、冷たい水はすべて下の溝に入ってしまう。そのため、種の周辺はいつも水温が高い。このように、高い水温を利用する知恵が苗代である。94頁

筆者いわく、日本人は偶像崇拝ではなかった。

このように自然物に超人的力を認める働きが日本人の意識にあるが、それは、ものや現象が神になるのではなく、神霊が別にあって、それが、人を含めたものや現象を憑代として、宿るのである。34頁

中国のことわざ「銕中の錚々(てっちゅうのそうそう)」とは、鉄具がたくさんある中に銅具があると、その銅具はいい音がして目立つ。そんな言葉ができるほどに、鉄を卑しめていた。

「銕」という字は金偏に「夷(えびす)」という字が書いてある。つまり、野蛮な部族、東夷である東北アジアの金属ということである。われわれが一般に使う「鉄」の字は、もっと略して、金偏に「失」である。すなわち、つまらんものということであり、中国は、鉄に対しては、一段と低いものとする用語を使っていたのである。65頁

天つ罪、国つ罪の違いは、対天と対人、対象のちがいか。

農作業を妨害する天つ罪、人間を傷つける国つ罪はあるが、放火犯の話は古代にはすくない。71頁

古代の葬式は死体を捨てることだった。

人が死んだあとの処理を「放る」といった。「放る」ということは捨てるということで、やがて「葬る」になり、それを司祭する人を「はふり」(ほうり)といって「祝」の字をあてた。葬るときは、風葬(曝葬)以外は、水葬が基本である。死体を川や海へ流すのである。/藤原道長の『御堂関白記』(九九八~一〇二〇年の日記)によると、京都のあたりでも、使用人が死ぬ直前、屋外に運び出して蓙の上で死なせ、死体をその蓙に包んで賀茂川に流しにいっている。賀茂川は死体の捨て場であった。川に流して死体を葬ったのだから、一種の水葬である。81頁

日本独特の天地観。

人が死ぬと、地下に埋葬する。日本人は埋葬した上にお祭りの場をつくった。それが後の墓標、墓石になる。/墓は地下部分と地上部分の中間に断絶があってはいけないとされる。地下から地上まで霊性はつながっているとみなされてきた。/そのため、墓に中間がとぎれるような、いわゆる猫脚の墓をつくってはいけないという迷信が生まれた。猫脚というのは、器台の形の一種で、墓標を器台に載せる発送から生れたが、それは天地交流の霊気を中絶させるとしてきらわれた。/日本人は、大地の聖霊が上昇して大気と合体・交流しないと、不調和が起こると考えた。途中で自然を遮断するということは不調和のもとであるから、地霊はたえず上昇するようにしなければならない。/逆に、空中の霊は地下につながって、地霊と交流する。このような、地上と地下との交流が、日本人の大地に対する基本的発想である。176-77頁

日本には、この(=仏教の彼岸と此岸)ような境界はなく、たえず上下交流する。肉体を失った魂も死の世界から出入りして、天駆り国駆ることができる。天地にひろがる魂を招いて神籬(常磐木を植え神聖を保つところ)に憑依させるのが祭りで、この場合、ただちに霊と人との交流ができた。これが日本人の霊魂観の一部であり、その魂の安住の死の世界が地であるから、地すなわち土と人生は密着し、地は神聖であった。178-79頁

検校(かんがみる)とは、ときの権力が被支配の神社の神宝(かんだから)を点検することだ。大和王朝は土地と人民支配にあたって、この検校(かんだから)をとおして、土着の祭神を祀った神社を、大和王朝のもとをつくった氏族群の神社に置き換えていった。

ある土地に住む氏族にとって、その土地を守る神が産土神であり、その血糖の祖神が氏神である。元来、この両者の本質は別のものであったが、日本では、同一民族であるために、地縁と血縁が一致する場合が多く、その氏神は土地開拓神である産土神として、その地域住民の信仰の中心的象徴であった。したがって、氏神の統制は、同時に土地支配権の統制を意味した。196頁

江戸時代まで、日本の国土が生みだす食物と人口は相関関係にあった。

昭和五十三年に、小山修三氏が、縄文時代の人口を二十六万、弥生時代を六十二万という推定をした。/奈良時代は五百五十七万という沢田氏の推定がすでに出ている。205頁

 

鮎川哲也(編)『殺意のトリック』(双葉社、1979)

非職業作家の作品を集めた作品集。現在では読める作品もあるとはいうものの、資料的価値が高い。「白魔」「新納の棺」のトリックには驚かされた。

黒輪土風「六人の容疑者」

岡沢孝雄「四桂」(既読)

岩田賛「死の標灯」

山沢晴雄「銀知恵の輪」(既読)

鷲尾三郎「白魔」

横内正男「三行広告

宮原龍雄「新納の棺」

鬼怒川浩「鸚鵡裁判」

楠田匡介「雪」

大庭武年「競馬会前夜」(既読)

 

 

 

国際連合という神話

国際連合という国際機関について、成立の経緯と成立時点の姿を明るみにすることにより、その本質を論じた本。国連は第二次大戦の際に「連合国」と称した軍事同盟が戦争終結前に結成を試み、終結後に発足した、戦後の国際社会の現状維持を目的とした主権国家が集う結社にすぎない(55、188頁)。現行の集団的自衛権国連憲章以前は「軍事同盟」という概念で説明されていたこと、国連の軍事行動は軍事同盟の名残りなど、示唆に富む(117頁)。筆者は国連設立の経緯から考えれば、日本は「外様大名」なのだから、常任理事国入りなど目指さぬことが賢明であると述べている。