禁煙ファシズムと戦う

禁煙ファシズムと戦う (ベスト新書)

禁煙ファシズムと戦う (ベスト新書)

※序文(小谷野敦)/禁煙ファシズム闘争宣言(小谷野敦)/「禁煙ファシズム」の狂気(斎藤貴男)/嫌煙と反-嫌煙のサンバ―論争史、それから映画『インサイダー』について/反・禁煙放談(小谷野×斎藤)/国家依存症の危険―後記にかえて(小谷野敦)/(付録)エンストローム論文「カリフォルニア在住者を対象とした計画研究における環境中たばこ煙とたばこに関連した死亡率、1960−98年」
※本書で引っかかったのは、執筆者の1人でもある小谷野が憲法14条違反を持ち出している箇所。「序文」他に、千代田区の「たばこ条例」、健康増進法が、憲法第14条の「法の下の平等」に違反との主張がある[5, 9]。ようするに、ヒトに害をもたらすという点では酒(アルコール中毒)もクルマ(排ガス、事故)もあるのに、喫煙者だけを一方的に差別しているというのだ。言及のあった、憲法14条第1項は次のとおり。
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
 この条項がどのように運用されているのかというと、裁判所の判例から確認できる。結論からいうと、裁判所が「法の下の平等」に反すと判断する状況はきわめて限定されているということ。逆に、判例合理的な根拠にもとづいているなら、法による差別的な取り扱いを認めている(!)。そしてその合理性はかなり広く解釈される。差別的取り扱いが、あまりに極端で合理性に欠くばあいにいたったとき、ようやく、不合理な差別的取り扱いとして違憲と判断される。
ここで重要なのは、この条項が法による差別的な取り扱いじたいを否定していないことだ。違憲とされた代表例に、刑法の尊属殺人罪がある。これは本書でも言及されている[9]。この違憲判断は一般の殺人罪と、尊属殺人の量刑をくらべると、両者の格差があまりに大きすぎるとし、法による不合理な取り扱いと認定したのである(たしかその判例ですら他人にくらべ尊属への量刑が重いこと自体は容認していたので、驚いた記憶がある)。
では、喫煙者の行動を制約する立法は違憲なのか。まず、運転、飲酒ではなく、喫煙行為だけを規制しても、「合理性の範囲内の差別的な取り扱い」であれば認められる。もしそうなら「法の下の平等」の範囲内の規制ということになる。
つぎに規制の合理性について。それが著しく不合理なものかどうか。常識的に判断すれば、いわゆる「たばこ条例」は喫煙行為そのものを否定しているわけではない。路上喫煙地区を設定し、あるいは公共の施設に限定して喫煙を制限しているだけなのだ。喫煙じたいを否定してないことがポイントとなる(それが苦痛なんだといわれればそれまでだが。もしそうなら、ヒトの気持ちを不安定にさせる、たばこ自体の害悪(=依存性)を問題としなければならないだろう)。
したがって、喫煙者への法の差別的扱いは合理性の範囲内と判断されるのではないかと思う(もちろん、あらたな判断を裁判所から引き出して、従来の見解が大幅に修正される可能性はあるが、個人の利益より法秩序の維持に腐心する裁判所がそのような判断をくだすことは稀である)。
長くなってしまった。私は法律の専門家ではないが、このあたり近所の図書館で憲法関係の本を手にしていただければ確かめることができる。
※(2/5追記)斎藤論文はルポルタージュで、情報量が多く有益。問いの立て方が素朴なのが気になるが、なにより探求する姿勢がよい。彼の通った跡には数々の事実や発見がころがっている。厚生省による「健康日本21」についてもくわしい。ただし「禁煙ファシズム」という斎藤の用語選択は扇情的すぎる。(権力作用としての)公衆衛生あるいはパターナリズムとして論じたほうが穏当なのではないか。ファシズムという言葉は色が付きすぎている。なお181ページの「評論化」は「家」の誤植のようだ。
※一方、栗原論文は何が言いたいのか最後までわからなかった。なによりも日本の嫌煙権と米国のある映画の内幕、というレベルの違う話を並べたのは致命的だと思った。話し言葉を延長したような文体はかえって冗長で苦手だ。体言止めも気になったし、ぼかした表現も目立つ。残念。
その背景にあると思われるのは、一九九〇年代半ばに米タバコ業界をひっくり返した、とある内部告発事件である(229ページ)
節をこのように締めくくっているので、次節でこの事件のことが語られるのだなと予想していたら、唐突に告発事件をモチーフにした映画の話がはじまる。この箇所は、なんど読みかえしても納得いかない。