溺れる人魚

溺れる人魚

溺れる人魚

満足度:☆☆☆★★(星3つ) 「自称『21世紀本格』の無惨な姿がここにある」
 
(総評)
 はじめの三作はハインリッヒ・フォン・レーンドルフ・シュタインオルト(長い!)を語り手としている。「人魚兵器」「耳の光る児」の初出は『名車交友録』。「耳の光る児」をのぞく、残りには人魚(姫)への言及がある。
 近年の筆者の作品は「装幀負け」している印象をうける。弁当を包む布がいくらきれいでも、中身が・・・。
 
1.溺れる人魚(書き下ろし)
 謎の提示が遅い。三分の二まで読まないと謎が出てこない。
 警察が携帯の通話記録を調べないのはおかしい。
 筆者はつじつまを合わせるために、被害者の娘を殺している。
 人物造形が平板。患者を被害者、医学教授を加害者と描く。本作での筆者の善悪二元論は作家としてのレベルを疑う。外的条件によって善人は悪者へと容易に転化する。これこそ作家が描くに値するテーマのはず。
 PSAS(持続性性喚起症候群)への言及が「21世紀本格」の要件を満たすとの筆者の思考には落胆(p. 62)。
 (誤)ダイパー(おむつ)を変える (正)〜を替える(p. 44)
 
2.人魚兵器(初出は『名車交友録(上)』原書房
 この短編は思わぬ収穫だった。人間の奥底にある、無良心無恥な側面を垣間見ることができる。本編はナチスによる非人道的な実験がテーマだ。しかし実際は、筆者は自らの邪(よこしま)な想像をナチスに託しているにすぎない。人間誰しも、このような下劣な邪念を奥底にしまっている。筆者のバカげた与太話は、それを呼び起こしてくれた。
 「ヘンシングボリは、かつて友人のエゴン・マーカットがいた街である」(p. 118)
 『名車交流録』の方には写真が豊富にある。筆者のきどった写真も多数あり、眺めていてあきない。
 
しかしこれだけでは商品として弱いという判断が出版社にあり、自分もそのように感じたから、以前より脳裏にあって発酵しつつあった「人魚兵器」という短編小説を書き下ろし、これら文章群の冒頭に載せてみた。この作は、最近書物にも主張している「二十一世紀本格」という新カテゴリーに入る作例と思うがスウェーデンウクライナ、ドイツ、ポーランドに跨る一編の叙情詩で、自分としては気に入っている(『名車交友録(上)』p. 257)。
 
3.耳の光る児(初出は『名車交友録(下)』原書房
 筆者の悪癖がでた作品。
 モンゴル帝国のヨーロッパ進出について、資料の引き写しが紙面を埋めている(参考文献に言及しない筆者の姿勢には感心しない)。自分にとっての「大発見」をすぐ書きたがる悪癖がここでも再発している。なぜ小説という媒体を選択するのか、いつも疑問に思う。
 話の謎も、夜光クラゲのGFP遺伝子が人間に入ったら詩的だな、くらいの幼児レベルの発想だ(登場人物が被る苦しみへの共感など、筆者には関係ないことのようだ)。
 国際派のキヨシが車から事件を連想する件はおかしい。マスタード(菜っぱ)とペッパー(唐辛子)は欧州語の脈絡では別物だ。日本語ではマスタードを「西洋ガラシ」とよんでいるだけ。自称天才の「キヨシ」がそんな初学者のような連想をするのは考えがたい。ちょっと恥ずかしいミス。どんなに雰囲気をだそうとも、筆者の知的レベルはたかがしれていることがわかる。
 
下巻用にも「耳の光る児」という短編を書き下ろした。この作も「二十一世紀本格」の系流に与するもので、以前よりメモを作ったりしながら、書きたいと考えていた。これも、当上巻に収録の「人魚兵器」以上に、地理的、歴史的な広がりをもつ一大叙情詩で、自分としてはたいそう気に入っている(『名車交友録(上)』p. 258)。
 
4.海と毒薬(初出は『島田荘司「異邦の扉」に還る時』)
 自己陶酔と妄想にまみれた作品。つぎの文章を読んだ瞬間、力が抜けた。こんな文章を自作する、筆者の精神構造はどうなっているのか。
 
『異邦の騎士』以来、私はひたすら、石岡先生の書かれるものを追って読んでまいりました。・・・・・・新刊が出るたびに大急ぎで買い求め、読んでいます・・・・・・。そのどれにも、一冊としてがっかりさせられたことはありません(p. 256)
 
 「海と毒薬」という題名から、インスピレーションをえて書いた作品(p. 273)。本人は美しい物語をつくり、してやったりと思っているようだが・・・。
 初出にはお店の地図がある。